田中角栄の評伝の後、表舞台に上がることのなかった石原慎太郎Twitterでこの発言。大炎上を起こした。

問題の点は冒頭の「業病」という文言である。この言葉は前世で悪行を起こした故今世で起きたカルマの病気という表現だ。

尊厳死についての事件、問題、論考はここ最近で大きく拡大する我が国の垢なりつつあり、いつの時代も弱者や、必然でなくて偶然が、呼び起こす悲惨だが目を背けてはいけない。重要な問題としてなっている。

 

 

とこのように過去の発言などを穿り返されたりもして仕方なしだろう、謝罪に至った。

 

しかし自分は石原慎太郎の発言にも一理はある。と思ったので、その部分を認めないのは自分としては納得がいかないので石原氏を擁護するような発言をツイートした

 

そもそも石原家という馬鹿デカイ昭和の遺産の中で縛られている男が、まだこうやっていきをはいているのが戦後を知っている世代の人間の意地を感じるのだ。

上杉隆のRTで回ってきた動画で石原都政時代の会見で、靖国神社参拝を公人としていくのか、私人としていくのかという質問に対し

「公人と私人両方。いとこも戦争に出てるし、記名する時に肩書きを外すのか」と発言したのち直ぐ記者を一喝。戦争が如何に過酷なものであったか、これは当時から老害扱いされていた石原慎太郎ではあるが、この価値観こそ次の世代にどう残すかという課題になっているのは想像すれば直ぐ理解できる。

バックトゥーザ・フューチャー然り、この世界の片隅で然り、作品、マクロにいえば文化だが作品こそが過去未来を可視化させる一等の必然なのだと思う。というか確信付いている。

 

そういう意味で石原慎太郎の数々の暴言というのは見てきたもの見方の違い育ち方の違い食ってきたものの違い、昭和の了見と解釈できる。今だから出来る。やはり作家として傑作を書き上げ政界に行った石原慎太郎という存在は当時としては異端だったんではないかと想像する。

私は何故蓮池に水滴が落ちて波紋が小さく広がった時の静寂を若者が理解できないのではないかと思う。文学書、詩集などを読んでいる若者にもそこから派生していく枝分かれの自然の、その水滴一つで山一つすらも動かすのだ、という精神ばかりは体験してみないとわからないものだと感じる。

直ぐその言葉を聞いて直ぐ5、7、5が言えるものだろうか。現代の言葉でフリースタイルともいう詩学の世界では韻律ともいう。”国語”はのちにポルノのようなものになっていってもおかしく無いと夢想する。

日本の伝統はどんどん失われていく。そこで唯一レフトフィールドでいられるのは運動家ではなく表現者である。産みの苦悩、鍛錬に真摯な人間達が遺産を再構築できるのだと信じている。

だからやっかみ右翼の石原慎太郎が長期にわたって都政を仕切っていたのは、平成元年生まれの私としては良かった気がするのだ。

 

しかし平和ボケな発言をしている訳にはいかない。コロナの感染者と死者の比率があべこべなコロナウイルス問題のやり方は、つまり小池百合子と現内閣は言わなくてもわかるだろうが、自己保身と既得権益層への忖度が丸見えで、自分も含めこの同調圧力と、共感圧力に満ち溢れた。異論をゆるさない古い日本を表現で破壊するのだ。私はとうに準備段階である。